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性は神聖なもの

2024/07/30

人間は神の宮です。卑しい所、汚らわしい所は何一つありません。それが、男性器であろうと、女性器であろうと神聖なものです。

動物は裸であることが自然です。しかし、人間は衣服を着用して隠します。聖書の創成期の内容が事実かどうかは別として、善悪知るの木の実を取って食べたことにより、裸を恥ずかしく思い、いちぢくの葉で陰部を隠し、エデンの園から追放されたという神話は、人間の深層意識に刻み込まれた何かを象徴している気がします。何か隠すべきものが発生し、闇が生じたのです。そして人類はその何かを抑圧し続け、自然に逆らい続けて今日の文明といわれるものを築いてきたのです。

では、本当に裸、特に生殖器は隠すべき恥ずかしいものなのでしょうか。男女の性の営みは子孫を残すという生殖作用に限定された隠すべきものなのでしょうか。男女のまぐあいは、もっと神聖で尊いものであり、生殖器も神聖で尊いものであり、隠すべきもの、恥ずかしいものでは全くなく、尊いもの、大切にすべきものではないのでしょうか。

性は生命の根源的なエネルギーです。「せい」は生命の生であり、清らかな清であり、神聖な聖であり、正当な正であり、成長の成であります。生命の根源的エネルギーであり、神聖で清らかな成長のためのエネルギーなのです。性の中にその全てのエネルギーが内在されているのです。

タントラという技法があります。タントラでは、性エネルギーは生命エネルギーであると理解します。性エネルギーを生エネルギー、聖(スピリチュアル、精神的)エネルギーに変換する技法が伝えられています。弘法大師空海が最も大切にしていた『理趣経』の中に、「妙適清清浄句是菩薩位」という言葉が記されています。これは、「性的エクスタシーは清浄な菩薩の境地である」という意味です。それに続いて、男女が激しく思う事、男女が肌を触れ合う事、お互いに相手を離しがたく思う事も清浄な菩薩の境地であると記されています。空海は煩悩である性欲も悟りへ導くエネルギーとして利用できる(煩悩即菩提)と語ります。

老荘思想の流れをくむタオや、エジプト、インドのタントラでは、善も悪もない、全てをありのままに受け入れ包含するという考え方をとっています。全ては自然なものであり、不要なものはないのです。性エネルギーと生エネルギーは同じものです。男性は宇宙の陽的部分を代表し、女性は宇宙の陰的部分を代表します。そして男性の中にも女性性が、女性の中にも男性性が含まれています。男女の性の交わりは、男性性と女性性の融合であり、宇宙の融合です。男女の融合の中に神が顕れるのであり、男女が交わり完全に溶け合って一つになっているのが神であり、神は愛なのであって、神という人格があるわけでもなく、神が愛情深いわけでもなく、愛が神であり、神が愛なのです。故に性は神聖なものです。

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